近年は刀剣ブームで、博物館展示の呼び物となる人気の名刀がけっこうあるようだ。徳川美術館所蔵の「名物戸川志津」もその一つだ。美濃伝の祖と言われる志津三郎兼氏の作である。持ち主は宇喜多秀家の元家臣で庭瀬藩主となった戸川達安(みちやす)。その後、加賀前田家、将軍家、紀伊徳川家、将軍家、尾張徳川家の手を経て今に至っている。
もし達安が宇喜多家を離れなかったら、戸川家もろともこの名刀も失われていただろう。徳川の世で戸川家は藩主となり、藩主家が途絶えてからは5つの旗本家が幕末まで栄えた。本日はその一つ、帯江戸川家の史跡を紹介する。

倉敷市羽島に「帯江戸川家陣屋跡」と刻まれた碑がある。
達安が宇喜多家を離れることとなる宇喜多騒動は、武闘派と官僚派、守旧派と革新派、日蓮宗徒とキリシタンという分かりやすい対立軸で語られてきた。達安は武闘派(守旧派、日蓮宗徒)の代表格である。主君宇喜多秀家のお友達内閣にベテランが反発したように見え、秀家のリーダーシップ欠如と理解されていた。
しかし実際には、秀家が家中再編により領国支配主導権を確立しようとしたのだという。惣国検地が古参家臣の既得権益を奪うことになり、利害で対立するのは必然であった。このようなトラブルを経て中央集権化が進み幕藩体制が成立するのであるが、宇喜多氏の場合は直後の関ケ原敗戦によりお家そのものが続かなかった。
戸川達安は歴史の趨勢を見極めない単なる抵抗勢力だったのかもしれない。それでも家康とのつながりができ、お家繁栄のきっかけとなったのだから、人生捨てたもんじゃない。達安は関ヶ原で島左近を討ち取る(早島戸川家の家伝)など戦功大なるものがあり、備中庭瀬に領地が与えられ大名となった。二代正安の時、弟の安利が備中帯江に分知され独立した。その後の歴史は、碑文を読んでみよう。
戸川家顕彰之碑
戸川氏の始祖肥後守秀安は備後国門田に生まる。その先藤原氏なり。名を富川平助と云ふ。戦国動乱に際し幼にして父を失ひ流れて美作に居を移す。長じて宇喜多直家に仕へ戸川と改め平右衛門と称しその桂石の臣となる。宇喜多氏備作の太守となるや常山城主となり老臣の出頭たり。晩年友林と号し常山々麓に隠れ世を終る。男助七郎達安爵を襲ひ中納言秀家の執政たり。後徳川氏に随ひ慶長五年関ヶ原の役の戦功により備中国に二万九千石余を腸はり庭瀬に城を構へ諸侯に列せらる。
肥後守達安が三子平右衛門安利寛永五年墾田三千三百石の地を分知され此の地に治を定む。是当家の始なり。日向守安廣、五左衛門安村、五左衛門村由、主膳村眞、大次郎安章、因幡守安榮を経て伊豆守安愛に至る。治定八代二百四十年なり。
歴代の主たる開墾は左の如し。
元和四年 加須山古新田 宝永元年 加須山当新田
寛永十七年 加須山村小瀬戸新田 承応元年 亀山新田
万治二年 有城村福原新田 寛文四年 高沼新田
延宝四年 高沼新田再開墾 延宝七年 前潟新田
元禄三年 添新田 宝永四年 沖新田
因みに、居屋敷は江府田安もちの木坂、家紋は、三本杉、梅鉢、波に澪標外なり。
明治維新以来百年余の今日、帯江、帯江新田及びその周辺の住民発展の礎を築けるは一に歴代領主戸川家に負ふもの大なり。茲に始祖竝に歴代領主の名を刻し以て二世紀有半に及ぶ功績を讃へ後世に伝ふるものなり。
昭和四十五年五月
戸川家陣屋跡建碑期成会
歴代領主のうち、二代安廣公については「三百年後も慕われる政治家に」でレポートしている。干拓地に住む私にはよく分かる。ご領主様、殿のご指示がなければ、今の私はここに立つことさえできなかったのです。足元が固まらねば、人は安心して暮らすことができないのだ。
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