三重堀切の断面を見よう!

「扇の的」は『平家物語』屈指の名場面である。決定的瞬間を高輝度画面でスローモーション再生するような映像美が感じられる。巻第十一「那須与一」を読んでみよう。

与一鏑(かぶら)を取(っ)て番(つが)ひ、よ(っ)引いてひやうと放つ。小兵(こひやう)と云ふぢやう十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響く程長鳴(ながなり)して、あやまたず扇の要際(かなめぎは)一寸許(ばかり)置いて、ひふつとぞ射切(いきっ)たる。鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ挙(あが)りける。暫(しばし)は虚空に閃(ひら)めきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさ(っ)とぞ散(っ)たりける。夕日の輝いたるに皆紅の扇の日出(いだ)したるが白波の上に漂(ただよ)ひ、浮(うき)ぬ沈(しずみ)ぬゆられければ、沖には平家ふなばたを扣(たゝい)て感じたり。陸(くが)には源氏箙(えびら)を扣(たゝい)てどよめきけり。

両軍が絶賛した見事な胆力と技量。ほうびに与一は、頼朝から全国に五か所の領地を賜ったという。その一つ、備中荏原荘には子孫が移住して山城を築き、確固たる勢力を維持していた。

井原市西江原町に「小菅(こすげ)城跡」がある。

「小菅城址」と刻まれた石碑の背後が本丸である。二の丸から本丸にかけては公園のように整備されている。

右手に見える石碑には「本丸」と刻まれ、真ん中に小さく写る標柱には「小菅城址」と記されている。国人の居城に相応しい結構な規模があり、中枢部を堀切で守っている。

上の写真は、二の丸東側の堀切である。深さは大したことない。というのも東側にはまだ、いくつもの曲輪が続くからだ。下の写真は、本丸南側の尾根を遮断する堀切である。しっかりした造りだ。

こちらの堀切は三重に造られ、しかもその構造を断面から理解することができる。尾根に車道ができたのだ。

搦手から車で攻め込むことのできる現代とは違って、街道筋からは見上げるように高く、背後は山また山。難攻不落の相を見て取れる。

東側を通過するのは県道166号美袋井原線。今は城を避けるかのように山中に入って北上するが、かつての道は城の直下を進んで永祥寺方面に向かっていた。作州へと続くことを示す道しるべもあるという。

存在意義の大きなこの山城には、どのような歴史があるのだろうか。搦手の山中を通過する道に「小菅城址進入路入口」があり、そこに説明板が設置されている。

小菅城址案内
小菅城は、今から約七九〇年ほど前に築かれた城で、西江原町才児を北から南に流れる雄神川の西方にそびえる小菅山頂(海抜約一四〇米)にあった。しかし今は礎石など無く東西約六〇米、南北約四〇米の城域に老松など生い茂っている。
那須与一宗隆は、源平屋島の合戦(今から約八〇〇年前)に扇の的を射止め、空前の恩賞によって丹羽国五賀庄(兵庫県)信濃角豆庄(長野県)若狭国東庄(福井県)武蔵国太田庄(埼玉県)備中国桧原、荏原庄(岡山県)の地頭職を拝命した。
この城を築いたのは宗隆の弟那須小太郎宗晴であるが、間もなく彼は下野国(栃木県)に帰り、代わってその三男朝資が城主になり、それ以後子孫代々城主になった。南北朝の末期嘉慶元年(一三八七年)那須頼資は、嗣子織部正弘と能登国(石川県)から高僧実峰禅師を招請して、開山一世として才児に禅洞山永祥寺を建立した。弘隆の長子資泰は、小菅城主となったが、次子光隆が中堀城(西江原町今市)を築いたのでここに移り住み、那須氏の居城としたので小菅城は廃城となった。
時を経て永享十二年(一四四一年)に那須長隆は新たに十蔵城(西江原町戸倉)を築いて、ここに移り住んだ。長隆より五代の孫清資は、毛利氏に居し天追十年(一五八四年)備中高松に出陣し、羽柴秀吉の大軍を迎えうち慶長五年(一六〇〇年)には関ケ原戦に徳川家康勢と戦ったが、どちらも敗れ関ケ原戦後毛利氏が領地をけずられ、那須氏は十蔵城を閉城して野にくだった。
平成十四年八月 西江原史跡顕彰会

訂正が必要な箇所が少々あるが、ここでは文意を汲み取ろう。那須与一とその一族については「受験の神様!那須与一」でレポートしている。そこでも宗晴と朝資は登場するが、系譜には諸説あってよく分からない。与一から四代目の朝資が宗晴と同一人物だったり、与一の弟が宗晴だったり…。

ここでも弟である宗晴が登場するが、朝資はその三男であり、子孫は代々城主となった。荏原三郎と名乗った朝資は、備中那須氏の祖という位置付けのようだ。

備中那須氏が居城とした小菅城は、戦国の世を迎える前に廃城となったように記されているが、その造りや立地からは備中兵乱時に何らかの役割を担ったことが考えられる。毛利氏の安定的な支配のもとで那須氏は、国衆として一定の勢力を維持したのだろう。

関ヶ原後に備中の国衆は身の処し方について選択を迫られた。毛利氏に付いて防長へ移るか、土地を離れず帰農するか。防長に移ったとしても直臣か陪臣か。人生の選択は本当に難しい。

備中那須氏は帰農を選んだようだ。政治と距離を置くことは、ある意味正しい選択かもしれない。本家の下野那須氏は、秀吉の小田原征伐に上手く対処できなかったが、家康には気に入られて大名となった。だが、それも長続きしなかったようだ。運命に翻弄され無念な思いをしたであろうが、那須与一を祖とする誇りだけは失わなかったに違いない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました