築城したのは三村氏か庄氏か

いろいろな場面で争奪戦が行われている。スポーツでもそうだし、人材やポストでもそうだ。勝ち抜くためには攻めの姿勢が欠かせない。努力を惜しんではならない。

漫然と胡坐をかいているうちに、欲しかったものはすべて持って行かれるだろう。自分の周りを回っていた世界は、砂上の楼閣のごとく崩れ去り、荒野の中にただ一人取り残されたことに気付くだろう。

戦国時代に争っていたのは城である。地域支配の拠点となる城もあれば、街道の往来に睨みを利かす城もある。今回紹介する城には、どのような性格があるのだろうか。

井原市美星町宇戸谷(うとだに)に「宇戸谷茶臼山城跡」がある。

山塊の南端に位置しており、背後の尾根を堀切で遮断し、正面には高い切岸を持つ曲輪が設けている。眺望が利けば県道倉敷成羽線が見えるはずだ。北に向かって成羽から松山、南に向かうと山陽道沿いの矢掛に出ることができる。

成羽には鶴首城の三村氏、矢掛には猿掛城の庄氏が勢力圏を築いていた。宇戸谷茶臼山城はその中間にあるのだが、両者が争奪していたのは備中松山城である。

まず勝利したのは庄為資(ためすけ)。尼子氏の支援を受けて松山城を大内氏傘下の上野頼氏から奪った。天文二年(1533)のことである。この頃の尼子氏は中国地方で最も勢いがあった。

その後、毛利氏が台頭するとその一翼、小早川隆景の支援を受けた三村家親(いえちか)が、庄高資(たかすけ)を松山城から追放する。永禄4年(1561)のことである。

そして、今度は宇喜多氏が台頭し、その支援を得た庄高資が松山城を三村元親(もとちか)から奪い返す。これが永禄十年(1567)のこと。しかし元亀二年(1571)、毛利氏の支援を受けた元親に奪回されてしまう。

親子二代にわたって激しく争った三村氏と庄氏。その勢力圏の境界は美星町明治と美星町宇戸谷の境にある梨ノ木峠だったかもしれない。とすれば、宇戸谷茶臼山城は庄氏の最前線だった可能性がある。ただ、城主の名は古い地誌にも伝えられていないという。

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