戦国時代に戻っている

アメリカのイラン攻撃くらい迷惑なものはない。降って湧いた石油危機により国民生活が脅かされており、このままでは間違いなく存立危機事態になるだろう。ロシアのウクライナ侵攻と同レベルなのに、アメリカを制裁しようという声が出ないのが不思議なくらいだ。

戦後80年と言っているうちはよかった。平和を享受しているのかと思ったら、実のところ戦前だったのであり、今や戦中なのかもしれない。まさに戦国時代。トランプ大統領の座右の銘は「天下布武」だとも、そうでないとも言われている。

浅口市鴨方町小坂東に「杉山城跡」がある。花崗岩の巨岩で要塞のように守りを固めている。

矢掛から鴨方に抜けるには遥照山の麓、地蔵峠を通過する。南西方向へと進む道は旧鴨方町域の地頭上、本庄(ほんじょ)、小坂東、小坂西へと続く。中世、小坂荘と呼ばれていた地域で、ここを守護するのが杉山城である。説明板を読んでみよう。

杉山城(別名・要害山城)跡
建武年間(1330年代)に小坂越中守によって築城された。その後、戦国時代には城主が毛利家の細川通董(鴨山城主)の重臣の河田紀伊守陸長や毛利元就の家臣小坂宗右衛門経通の居城となっていた。
通董は、鴨山城を本城とし北東には西知山城、北西にこの杉山城を周囲に支城として配置していた。元亀2年(1571年)2月、宇喜多直家が尼子再興軍6000余人の兵を動かし攻め入った城砦である。道董は侍150騎、雑兵2、000余人を従え、必死の決戦を挑んだが、尼子再興軍に包囲され、壊滅状態になり山手西郡村(現・総社市山手)の幸山城へ逃げいった。
※杉山城跡
標高・226m
遺構・主郭(山頂)、二の郭、三の郭(西側尾根)、曲輪など、旗穴、堀切、竪堀、石塁、切岸、虎口(裏門か)、石積(石垣)
杉山城の守護神が祀られていた奥の院は2013年に御神体を麓の軍神社に移した。
杉山の北方向の標高268、5m山頂には高丸跡(杉山城出丸か)があり、杉山から高丸跡までの北尾根沿いには石塁、曲輪、大堀切、土橋、物見台等の遺構があります。
※要害山について
要害の地名は、味方に必要で敵方に害になる地形のこと。杉山山頂への進路は険しい勾配の山になつていて大岩が至る所に存在しそこも防御として使っていたものと思われる。
「西国の山城、他より抜粋」
【杉谷里山づくりの会】

元亀二年(1571)2月に、宇喜多直家が尼子再興軍を動かして、杉山城主細川通董(みちただ)を追い散らしたという。これは『中国兵乱記』二「尼子晴久備中へ働き所々城を攻事」の記述が元になっているが、元亀二年に尼子晴久は存命ではなく、尼子再興軍の誤りだとしても当時それほどの力はなかった。どうも胡散くさい。

確実なのは、天文二十二年(1553)の山口県文書館所蔵『譜録』「毛利元就・隆元連署書状写」である。「一小坂之事、去二日城切崩猿懸衆少々討捕候、太慶此事候、」とあり、小坂の城を切り崩し、猿掛城主庄氏の軍勢を打ち捕らえたことを、元就父子は大いに喜んでいる。また、毛利氏に従う鴨山城主細川通董の影響下にあったのも確実だろう。

眺望は抜群で、細川通董ゆかりの鴨山城、竜王山城、青佐山城などがよく見える。

本丸南側の巨岩には「旗穴」がある。幟は麓からも目立ったことだろう。城跡を巡ると、しっかりした「石積」や長い「竪堀」を見ることができる。

主郭の南西側には「堀切」、北側の尾根には「大堀切」がある。

イラン攻撃に関してトランプ大統領が演説し、We’re going to bring them back to the Stone Ages where they belong.と述べた。良識ある元首が口にする表現とも思えないが、要するに戦争継続だ。停戦について言及があると期待していた多くの人ががっかりし、日経平均株価は1200円以上下がり、原油先物価格は5%超上昇した。

戦果を誇示する演説内容はまさに”大本営発表”であり、すっかり信用を失っている。そう思わせておいてから「停戦」を発表し、称賛されることを狙っているのか。「石器時代に戻してやる」と言うが、本当にそうなってしまうのは、石油を失えば何も出来なくなる私たちに他ならない。

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