半年ぶりにポストを再開します。ブログ移行に伴う不具合を修正するのに、ずいぶんと時間が経ってしまいました。これから少しずつ書き継いでまいります。再開第一弾は大河「豊臣兄弟!」にちなんで、豊臣秀長ゆかりの地からのレポートです。
リーダーがいくら優秀でも、補佐役がしっかりしていないと、いい仕事はできない。補佐役は積極的な意思疎通を図り、建設的な提案を行い、リーダーの負担を軽減する。時にアクセル役、内容によってはブレーキ役となって、業務の安定に寄与するのである。
秀吉政権崩壊の遠因となる朝鮮出兵も、秀長が生きていれば回避できたのではないかと言う人は多い。ならば、天下人への転機となった高松城水攻めでは、どうだったのか。

岡山市北区立田と吉備津の境にある鼓山に「羽柴秀長(秀吉弟)鼓山陣所本陣跡」がある。表示板には、上に「天正10年(1582)高松城水攻」、下に「海抜118m 麓から420m」と記されている。
陣所に相応しい広い平坦地である。奥に岩が見えるが、これは鼓山古墳群3号墳の天井石だ。秀長は古墳をどう見ていたのだろうか。決戦を前にして、それどころではなかったかもしれない。
説明板は西側の登山口にある。登る前に予習しておこう。
髙松城水攻関連史蹟
つづみ山城 登山口
天正十年(一五八二)四月、織田信長の命により、備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。加茂・日幡の城を見下し、庭瀬・松島城攻めの味方の動きも一望におさめていた。
六月三日未明、本能寺の変を毛利方へ伝えんとした明智の臣・藤田伝八郎を捕え、秀吉に太閤へ立身の勝期を作らせた。この使者の墓が『盲塚』として麓へ残っている。
山頂には本丸跡、山腹には三段構の土塁や出丸・馬場の跡が今も当時のまま残っている。
(文責・高松歴史をたずねる会)
昭和五十八年十二月吉日
高松城趾保興会 ヒラマツエ芸 建之
織田・毛利の一大決戦が始まろうとしていた。毛利方は備前・備中の境に位置する境目七城(冠山城、宮路山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城、備中高松城)を防衛ラインとしていた。
この戦いに従軍した中島元行が著した『中国兵乱記』「織田御次丸羽柴秀吉備中宮路山城攻之事」には、次のように記録されている。
同年(天正十年)三月十五日、織田御次丸・羽柴筑前守秀吉は備前一の宮に在陣、同左衛門秀長、板倉郷鞁山近く峰々平等に軍勢充満仕たり。同十六日に鍛冶屋山城へ御次丸秀吉入城。
織田御次丸とは、信長の実子で秀吉の養子となった羽柴秀勝である。秀吉と共に本陣を守り、信長の名代のように見える。「同左衛門秀長」が羽柴秀長、「板倉郷鞁山」が鼓山のことだろう。鞁は「つづみ」とも読むようだ。秀吉は備前一宮から進んで、宮路山城を落とすため鍛冶山城に入った。
続く「秀吉卿備中冠山城攻附城主禰屋七郎兵衛働の事」には、次のように記録されている。
同年三月十七日、織田御次丸は龍王山へ構陣城入城、羽柴秀吉は四塚門前妙現山の峰々に構陣城、金床山に家々の旗を立並べ冠山城を遠巻仕、…。
15,16,17と日毎に移動するのは不審だが、秀吉が龍王山に本陣を構えたことは確かだ。ここを拠点として冠山城を攻め落とす。
続く「秀吉卿同国日幡城攻附上原元祐逆心の事」には、次のように記録されている。
同年四月十一日、羽柴秀吉卿は辻村の内石井山へ御陣替、軍勢は辰田村山の峰に築陣城給ふ時、日幡城主…。
有名な「太閤岩」がある石井山が登場した。登山口の説明板に「秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長」とあるのは、石井山本陣から見ている。この時、右翼は宇喜多忠家が固めていた。
日幡城、加茂城を落とし、猛将・清水宗治が踏ん張る備中高松城に対しては、折からの梅雨を好機として水攻めを敢行することとなる。
そして6月3日未明、歴史の転機を迎える。明智光秀が毛利方に遣わした使者・藤田伝八郎を、秀長の陣営が捕らえたのである。詳細については以前の記事「密使が左右した歴史の運命」でレポートしている。使者の墓だという「盲塚」も紹介しているのでご覧いただきたい。
「京都より飛脚到来を即時に御手討」とあっさり記述したのが『中国兵乱記』、「秀吉此表書を見ると等しく馳寄りて抜討に彼曲者を斬り給へば、首より胸へかけ一刀に切倒され、即時に息は絶えたりけり」と物語にしたのが『絵本太閤記』である。
江戸中期の軍記物『備前軍記』は、どのように記述しているだろうか。
然る所に、昨三日の夜子刻京都長谷川宗仁より早飛脚来り、朔日に明智日向守謀反し信長公信忠卿を弑し奉る事を告たり。秀吉はさらぬ体にて、四日の朝も常のごとく馬験を持せて陣廻りども有ける。又昨夜京都より注進ありけると即時に、西国往還へ忍を出し置かれけるが、明智方より毛利家へ信長御生害の事を言送りける飛脚を庭瀬にて見付、是を捕へ其書を奪ひて、ともに秀吉の本陣へぞ出しける。すべて西國への通路の人を留ければ、毛利家へ京都の変も聞えざりける故、…
ところが、(宗治切腹の)前日三日の夜子(ね)の刻(午前零時頃)、京都の長谷川宗仁(信長の側近)から早飛脚が来て、「一日に明智光秀が謀反して信長様信忠様はお亡くなりになった」と告げた。秀吉は何事もないかのように、四日の朝もいつも通り馬印を持たせて陣中を見回った。また昨夜は、京都から知らせがあるとすぐに西国往還に忍びの者を出しておいた。すると、明智方から毛利方へ信長殺害を伝える飛脚を庭瀬で見つけ、捕縛して密書を取り上げ、秀吉の本陣に送致した。西国へ向かう道は通行止めにしたので、本能寺の変の知らせは毛利家に届かなかった。
生々しい描写は見られないが、いかにもありそうな対応である。秀長が登場しないので寂しいが、秀吉軍の中では西国往還に出やすい鼓山に陣していたのは秀長である。危急存亡の事態に際し、参謀として兄秀吉を支えたに違いない。
江戸後期の地誌『備中誌』賀陽郡巻之十一に「昔吉備津彥命皷をならし戝徒を征伐し給ひしより皷山と云實なりや否や」と記された勝運に恵まれた山である。歴史の転機の舞台となったのも故なしとしない。

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