未曽有の水害を伝える伝承碑

この冬の西日本は記録的な少雨で、うちの畑もパッサパサだったが、数日前のまとまった雨のおかげで有機肥料が土に馴染んでいくだろう。だが、季節はどんどん移り変わる。やがて、雨の多い時季が来るだろう。油断大敵である。

総社市井尻野(いじりの)字湛井(たたい)に「水災溺死者之墓」がある。ここは十二箇郷用水の取水口、湛井堰があるところだ。石碑は水門の石材を再利用したものだという。

広々した風景で穏やかな時間が流れるばかりだが、ここでいったい何があったのだろうか。石碑には次のように刻まれている。

明治廿六年十月十四日湛川近郷溺死百六十余人茲十二月一日請僧百余名営水上大供養以為各霊焉

時は明治26年(1893)、日清戦争前年の世情は「対外硬」で盛り上がっていた。当時の伊藤博文内閣(第二次)の陸奥宗光外相は、条約改正についてイギリスと交渉を始めていた。治外法権の撤廃と引き換えに内地雑居を認めるという内容に反発していたのである。今も右派勢力が外国人規制強化を訴えているが、同じ潮流だろう。

そんな政治とは関係がなく、10月には台風に刺激された秋雨前線の影響で、11日から豪雨、13日には台風接近により暴風雨、14日にピークを迎えた。高梁川はかつての鉄穴(かんな)流しの影響で河床に土砂が堆積しており、増水に耐え切れず多くの場所で破堤してしまった。

この石碑が関連する湛井堰下流左岸堤防の決壊は、吉備津付近まで影響が及び、死者は160人余りに上った。被害は県内全体で溺死者423人・流潰家屋6,240戸、堤防決壊はなんと112,887箇所に及んだという。

蓬郷巌『岡山の災害』岡山文庫142では、次のように記されている。

この大水害は、前年の大水害につづき二年連続のものであり、水害後、翌年にわたり腸チフス、赤痢などの伝染病が大流行して、その死者も多く、開びゃく以来の大悪年といわれた。

現代の避難所であっても、密な環境で衛生状態の悪化や免疫力の低下から感染症が広がる恐れがある。私たちは過去に学ばねばならない。自然災害は伝承碑に学べ。本日紹介の石碑も地理院地図に「自然災害伝承碑」として表示されている。

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