江戸中期 琉球楽人の客死 琉球使節の江戸上りは,薩摩,長崎を経て下関から大坂まで海路であった。瀬戸内でも有数の港である鞆の浦にも使節の定宿があった。将軍・家斉の襲封を祝って寛政2年に琉球から慶賀使が遣わされた。ところが,一行の楽人である向道亨は病に倒れ鞆で亡くなる。... 2008.09.06 江戸中期
戦後 色丹島の景勝 色丹島の又古丹は,この島第一の景勝地だ。ロシアではオトラドナヤ湾と呼んでいる。コタンという音はアイヌ語に由来するのだろう。しかし,今ではアイヌは墓を残すのみだ。「クリル人墓地」との日本語表記で保存されている。島の中心集落・斜古丹からは,国後... 2008.08.28 戦後
南北朝 南風競わず 後醍醐天皇の皇子たちは各地に転戦し、南朝の皇威を揚げようとした。遠江の井伊氏のもとに身を寄せた宗良親王もその一人だ。親王は井伊氏の娘、駿河姫を妃とする。戦いに向かう親王に同道しようとした姫は、浜松市北区細江町気賀の金地院の辺りで倒れ亡くなる... 2008.08.28 南北朝
戦前戦中 聖上陛下の御上陸 昭和五年五月二八日から六月三日まで,昭和天皇の静岡県御巡幸があった。六月一日には巡航船で浜名湖を御覧になり佐久米港に御上陸になった。ホテルグリーンプラザ浜名湖近くの海岸に,記念の石碑が当時の東濱名村によって建てられている。『三ケ日町史』によ... 2008.08.26 戦前戦中
南北朝 後藤又兵衛の先祖 姫路市香寺町矢田部に「後藤又兵衛ゆかりの郷倉」がある。後藤又兵衛とは,大坂の陣の勇将・後藤基次のことだ。郷倉は「ごむら」と読む。この「ごむら」は完形をとどめていない宝篋印塔の一群である。南北朝時代のものらしい。又兵衛と宝篋印塔,そして郷倉。... 2008.08.26 南北朝
戦国 腰投げ地蔵 石仏は人に安らぎを与えるが,とりわけ岡山市高松地区に散在する文英様石仏は心優しい。戦国末期,文英とその弟子によってつくられ,争乱の時代に亡くなった人々の霊を弔っているという。加茂小学校の近くのあぜ道に二体の地蔵尊が鎮座する。鎮座というほど堂... 2008.08.25 戦国
平安 名国司の顕彰 かつての土佐は遠流の地で,幾多の貴人が流されてきた。その一人,紀夏井といえば,応天門の変で排斥された名族・紀氏の有力者である。香南市野市町母代寺には紀夏井邸跡がある。母代寺の近くには父養寺という地名もあり,どちらも夏井の親孝行に由来するらし... 2008.08.23 平安
源平 数の時代 三十三間堂には一千一体の千手観音がおわす。一体の観音は三十三身に変化して衆生を救うというから,その数は三万三千三十三となる。救いの手は,そこここに伸べられていたのだ。三十三間堂の名で知られているが正式には蓮華王院といい,後白河上皇の院政庁で... 2008.08.23 源平
明治 勝ち戦のイメージ 備前法華といわれるように岡山には日蓮宗の信徒が多い。村々の中心には題目石が建てられ,今でも篤く信仰されている。丁寧な村では宗祖・日蓮を祀る祖師堂を建立している。岡山市青江は行政地名としては広範囲だが,昔からの集落は青江5丁目あたりの集住地域... 2008.08.22 明治