戦国

備前児島内高畠色立(いろだち)

高松城水攻めと本能寺の変は戦国史のクライマックスであり、秀吉の天下獲りはここから始まった。官兵衛は「ご運が開けましたな」と言ったが、中国大返しや毛利追撃阻止の背景には、運が開けるように周到な準備があった。それは制海権の掌握である。玉野市上山...
明治

お殿様の客殿の移転事情

本ブログ開設以来の総アクセス数が85万を突破しました。これもひとえに皆様のおかげと感謝し、今後とも精進を重ねてまいります。何卒よろしくお願い申し上げます。文化財の所有者が移転することはよくある。岡山県が購入した「赤韋威鎧」は6億円。もとは新...
戦前戦中

岡山はゴザ発祥の地

うちでは昔、イグサをつくっていた。夏の刈り取り作業は「ゆかり」といって大変な重労働だったため、県北から人夫さんに来てもらっていた。西粟倉だったか東粟倉だったか、あのあたりだったと記憶している。今年もうだるような夏がやってくる。地面も空気も建...
弥生以前

小さな古墳の大きな意義

我が国の古代には様々な謎があるが、前方後円墳の出現もその一つだ。あの形はいったい何なのか。前やら後ろやらは後世の人が勝手に決めたことだ。鍵穴というが、当時そんなものはなかったし、今の鍵穴はそんな形状ではない。前方後円という墳形が一気に全国展...
明治

漸次隆昌に向ひ名医嘖々たり

ずっと前に白目に出血が見られたので、震え上がって医院に駆け込んだことがある。医者から見るとよくある症例だったのか、あっさりした治療で拍子抜けした。以来、おかげさまで眼科には行っていない。やはり、困った時に頼りになる人、それはお医者さまである...
平安

地名に残る山上伽藍

比叡山に一度だけ登ったことがある。こんな山上にお寺を開こうとは、常人なら思い付かないだろう。延暦寺は麓の日吉大社を守護神としており、かつては寺院と神社の境界はあいまいだった。玉野市田井四丁目と五丁目、八浜町八浜の境あたりに三等三角点「三皇」...
江戸後期

海上も含んで金毘羅往来

本州から四国へと向かう主要ルートの一つ国道30号は、岡山市中心部の大雲寺交差点を起点として、児島湾干拓地を通過して玉野市へ入り、宇野港から瀬戸内海を渡って高松市を終点とする。車で走ることの出来ない、いわゆる海上国道である。この一見奇妙なルー...
神話

ホムダワケが二歳を迎えた地

男性育休の取得が推奨されている。仕事と子育てが両立できる労働環境を構築することは、少子化日本の喫緊の課題である。これがなかなか難しいのは、身近にロールモデルがいないことにあろう。古代に活躍した神功皇后は、長い遠征中に出産、育児を経験した。夫...
安土桃山

小早川隆景が見た高松城水攻め

墨田区を流れるのは隅田川で、京都の鴨川の上流は賀茂川である。多摩川から取水するのは玉川上水で、奈義町には雄大な那岐山がある。このブログには春日部市粕壁からのレポートもある。同じ場所で同じ読みながら、異なる表記をするというケースはけっこうある...
戦国

四重堀切で防御する山城

幕末の万葉歌人、平賀元義の歌は現代人の心を動かし、その足跡を訪ねる人も多い。元義はもと平尾氏で、33歳のとき本姓である平賀氏を称した。その平尾氏は戦国時代に備前国仁堀荘で勢力を有していたという。本日はゆかりの山城を訪ねることにしよう。赤磐市...